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     岩手県立盛岡第一高等学校1968年(昭和43年)卒 


山梨県大月市の岩殿山は歴史に残る山城、城オタクの大澤君のガイドでツアーを楽しみました。


歴史的建造物『猿橋』


猿橋の紅葉は素晴らしい

猿橋の上で記念写真 左より熊谷、澤藤、大澤、津留、戸来


岩殿山周辺案内板

岩殿山頂から富士山の展望

眼下に拡がるのは大月の市街

中央下から右斜め上に約30°の勾配で中央本線の線路が見える

中央の山あい、煙のたなびく向こうには中央高速自動車道富士吉田線(河口湖方面)と、その上のほうにJRリニア山梨実験線が見えた

岩殿山頂の城跡案内図

岩殿城の築城時期や築城者は定かでなく、最初から小山田氏が築城した説や、武田氏が甲斐国内防衛のために築城した説などあります。9世紀には山麓に天台宗円通寺が開山しています。 享禄5年(1532年)、武田家臣小山田氏の谷村館の詰め城として整備され、甲斐にとっても相模、武蔵口を固める重要な拠点として機能しました。山道のほとんどが階段で、山頂付近に近づいて最初に見る遺構が、揚城戸と呼ばれる城門跡で、山頂にある主要城郭への門で、自然の岩を切り開いてできています。巨石の裏には、番所跡とされる小さな平削地が南に突き出ています。ここから少し登って西物見台にでます。このあたりは山頂部分の西端にあたるので非常に狭いエリアで、ここから東へ馬場を経て馬屋、兵舎 などの跡とされる展望台にでます。土塁などの明確な遺構は見当たらなく、平削地があるのみのようです。展望台から少し北側に折れたところにある蔵屋敷と呼ばれる最も広いエリアです。 右のスロープを登って東側に行くと、二の丸を経由して最高位の本丸に出ます。本丸は電波塔が建っており、回りの眺望もききません。

   山梨県 大月市賑岡町岩殿山
天正3年(1575年)長篠の戦いに敗れた武田勝頼は、その後急速に勢力に衰えを見せ始めた。織田信長は、加賀一向一揆の殲滅、石山本願寺の降伏、毛利水軍の撃破と戦果を重ね、信長包囲網を壊滅に追い込んでいた。もはや織田信長に対抗できる勢力は、事実上、武田家と毛利家のみとなっていた。天正10年(1582年)3月。
信州木曾を守っていた武田家の重臣、木曾義昌が信長に内通した。信長はこの機会を逃さず、配下の将に武田領への侵攻を命じた。織田軍の総勢は10万ともいわれた。穴山梅雪も信長方に寝返った(ただし穴山梅雪は家康に仕える)。進退窮まった武田勝頼は、3月3日本拠地の新府城に放火。勝頼の正室佐代姫は相模北条家当主、北条氏政の妹だった。岩殿城へ立て籠もり、北条の援助を受ける以外武田家を生かす道は無いと判断したのだ。難攻不落と言われる岩殿城に籠城し、信長軍を迎え撃つことにした。途中、真田昌幸は岩殿城でなく上田城に籠もることを主張したが、勝頼は容れず勝沼から岩殿に向かった。だが、岩殿城城主小山田信茂は岩殿城の城門を固く閉ざし、、勝頼の一行に対し鉄砲を撃ちかけてきた。
勝頼は覚悟を決め、討死を決意したが、この時家臣の土屋惣蔵昌恒は田野に引き返し自刃することを薦めた。もはや勝頼に出来ることは、死所を何処にするか決めるだけだった。勝頼は最後まで忠義を貫いて付いてきてくれた僅かな家臣や息子信勝、妻らと共に天目山へと入って行った。時に武田家第二十代当主、勝頼享年37歳。偉大すぎる父信玄の後を継いだ悲劇の名将の最後だった。勝頼と妻子の自刃のあとは、後に徳川家康の手によって菩提寺が建立され、それが現在の景徳院である。境内には、勝頼が自刃した場所といわれる生害石が残されている。

こういった中世城郭と歴史について知りたい人は大澤邦雄君に聞いてください。

後方は乃木将軍の歌碑。乃木将軍も戦国武将武田勝頼とその妻子、家臣の悲劇に思いをはせたのであろう。

後列左より津留、熊谷、大澤

前列左より戸来、澤藤

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