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岩山展望台を文化遺産に |
在京と盛岡で共同推進 |
7月4日(土)盛岡市の岩手県公会堂21号室で主題のシンポジウムが行われ、三舩康道君のサポートのため澤藤隆一も前泊で盛岡に入り、出席しました。希望郷いわて文化大使及びNPO法人歴史的建造物とまちづくりの会代表、そしてジェネスプランニング椛纒\取締役社長の三舩康道さんが主体になって、盛岡市の岩山展望台を文化庁指定の文化遺産に登録してもらおうという動きの一環です。三舩康道さんは、第57回在京白堊会総会でプレゼンを行ったのに続いて、次のステップとして、岩手県公会堂に於いて岩山展望台への思い、建造物としての価値について考えるシンポジウムを行ったのです。ふるさとを離れながらも故郷を思うメンバー(白堊同窓主体、在京のほか、神戸市や軽井沢からも駆け付け)と地元盛岡市の関係者たちが一堂に会して、その熱い思いを語りました。盛岡白堊43会世話人の加藤力也君(一級建築士、株式会社アイティ−エヌ・ジェイワールド代表取締役)も駆け付けてくれました。定員60名のところ、57名が出席して盛会となりました。
盛岡駅から車でわずか15分の小高い丘陵地(標高340.5メートル)にある「岩山公園」は、風致公園として昭和45年(1970年)に開設されました。ここに設置された「鹿島精一記念展望台」は、昭和37年(1962年)建造、高さ11メートル、直径15メートルで、盛岡市出身の鹿島精一が初代社長を務めた鹿島建設株式会社から、これを記念して寄贈されました。建築後半世紀を過ぎたことから、2017年から2018年にかけて鹿島建設株式会社の全額負担で大規模な改修工事が行われました。地上に降りた円盤のような形をした展望台からは、市街地や秋田駒ヶ岳、岩手山、八幡平の奥羽山系から、姫神山・早池峰山の北上山系まで一望することができ、夜景も眺めることのできるスポットとして利用されています。「日本夜景遺産」「夜景100選」に選定されています。


■ 岩手県公会堂
岩手県公会堂は 大正12年(1923年)、昭和天皇が皇太子のとき、そのご成婚を記念し岩手県議会で公会堂の建設が発議され、建設が進められました。大正デモクラシーの高揚期で、大衆娯楽にも弁士が熱弁を振るう無声映画が登場するなどの時代でした。こういう時代背景もあって、市民生活の中では人々の集う場所が求められていました。
1927年創建の岩手県公会堂は、県会議事堂・大ホール・西洋料理店・皇族方等の宿泊所と4つの用途を備えていました。公会堂が出来た翌年に、盛岡を中心とした陸軍の大演習が行われた際にその大本営となりました。また、貴賓室の隣にある和室付属室・日本間(現・特別室)は御座所として天皇陛下のご宿泊所となりました。昭和20年(1945年)まで東側1階、2階には小食堂・大食堂・球戯室などがあり、県民の社交場として利用されていました。今年で創建99年、来年には100年を迎えます。改修は何度かされてきましたが、内部には漆喰の美しいレリーフや優雅な曲線のバルコニーなど、佐藤博士が設計されたアール・デコ様式の意匠が今尚残っております。欧州の歴史的建造物は、外観は保存しますが内部は新しくして良いというコンセプトです。時代と共にトイレを新しくしたり、エアコンを設置したりしています。岩手県公会堂も何か考えるべきかもしれませんね。


公会堂の設計者は、佐藤功一博士(元・早稲田大学建築学科主任教授)で、早稲田大学大隈記念講堂(1927年)や、日比谷公会堂(1929年)の設計者です。岩手県公会堂は日比谷公会堂に比べて規模は小さいですが、スクラッチタイル張り外装や塔屋の姿はそっくりです。同じ設計者ですから当たり前とも言えますが、いずれも耐震壁構造を備えた近代コンクリート建築の先駆けのような存在です。日比谷公会堂・市政会館には盛岡市東京事務所もありますが、奥州市出身の後藤新平東京市長が安田財閥の資金支援を得て建設されました。当時は東京で唯一のコンサートホールでした。
東京都有形文化財 日比谷公会堂・市政会館
■ 原敬の銅像
岩手県公会堂西側の庭園内に、原敬の銅像があります。この銅像は原敬没後30周年を記念して昭和26(1951)年11月に設置されたものです。原敬と言えば「平民宰相」の名で知られ、日本の政党政治の基礎を築き政党内閣を実現させた岩手が誇る郷土の偉人です。この銅像は本山白雲(1871〜1952)の作品で、同作者の馴染み深い作品としては、高知県桂浜の坂本竜馬像などがあります。
■ 岩山展望台を巡る歴史と鹿島建設
盛岡駅から車でわずか15分の小高い丘陵地(標高340.5メートル)にある「岩山公園」は、風致公園として昭和45年(1970年)に開設されました。ここに設置された「鹿島精一記念展望台」は、「岩山公園」開設に先立って昭和37年(1962年)建造、高さ11メートル、直径15メートルで、盛岡市出身の鹿島精一が初代社長を務めた鹿島建設株式会社から、これを記念して寄贈されました。鹿島家は女系家族で、鹿島精一は葛西精一として盛岡で産まれましたが、1歳の時に父が死去、母方の実家出渕家に引き取られましたが、この家の隣に日本国有鉄道東北本線の建設工事のため鹿島組の現地事務所が設置されたそうです。現場責任者として指揮を取っていた鹿島岩蔵組長が、隣の家の息子が優秀で将来見込みがあるとして学資を援助し、盛岡中学校〜第一高等学校〜東京帝国大学と進ませて当然ながら鹿島組に入りました。建築後、半世紀を過ぎたことから、2017年から2018年にかけて鹿島建設株式会社の全額負担で大規模な改修工事が行われました。地上に降りた円盤のような形をした展望台からは、市街地や秋田駒ヶ岳、岩手山、八幡平の奥羽山系から、姫神山・早池峰山の北上山系まで一望することができ、夜景も眺めることのできるスポットとして利用されています。





■ 鹿島組〜鹿島建設の初期の歴史
鹿島家は女系家族だと書きましたが、鹿島組初代組長・岩蔵が精一を養子として迎え、長女・糸子と1899年結婚して鹿島姓となります。娘婿ですね。精一は盛岡市上田(盛岡一高や岩手大学があるところ)で南部藩士の長男として産まれました。父の死去で母の実家・出渕家に引き取られました。盛岡市上田と盛岡駅の間に有る、現在梨木町と言われるところ、「福田パン」があった地域です。岩蔵の学資援助で東京帝国大学土木工学科を卒業した精一は鹿島組三代目組長に就任後、1930年鹿島組を株式会社組織に改め、初代社長に就任しました。精一は土木事業で才を発揮し、東海道線における熱海‐三島間の「丹那(たんな)トンネル」の難工事を請け負って、全長7.8キロメートルの当時日本一の長さに加え、鹿島組が請け負った西口(三島口)は地盤が脆弱な難工事区域で、これまでの工法は役に立ちませんでした。精一は陣頭に立ちエアーロック工法、セメント注入法などを新たに発案、17年の歳月をかけて1933年(昭和8年)にトンネルを貫通させました。この工事で開発された多くの工法や経験、技術によって、“鉄道の鹿島”の名声が確立しました。精一は数々の業界のトップを務め、土木学会会長なども歴任、土木建築業界全体の発展にも貢献しました。
精一は自らが岩蔵のおかげで道が開かれたように、向学心を持ちながらも進学できない学生への奨学支援に注力しました。娘婿・鹿島守之助が創設した「鹿島育英会」は現在も進学への道を開いており、その精神は今も引き継がれています。また学生南部同郷会や在京岩手県人会、在京盛中同窓会、岩手学生会ほか数々の岩手県関係団体のトップや幹事を務め、東京の「岩手学生寮」の建設も援助しました。娘の卯女は、父が終生ふるさとを懐かしく思い、盛岡から材料を取り寄せてお国料理を作ってもらい、幼少の思い出話に花を咲かせていたことを覚えていました。その夫・守之助は旧姓永富で、兵庫県半田村(現・たつの市揖保川町)に生まれ、東京帝大法学部卒業後は外務省に入省して、1922年には外交官としてドイツへ赴任、その船上で鹿島組(当時)の社長、鹿島精一に出会い、人物を見込まれてヘッドハンティングされました。1927年には精一の長女・卯女と結婚し鹿島姓を名乗るようになります。1938年、鹿島組社長に就任以降は、欧州で培った近代的経営手法を導入して事業を急速に拡大させ、戦後1947年には社名を現在の鹿島建設へと改称しました。鹿島建設の中興の祖と言われ、参議院議員も3期務め、実業家・政治家・学者という3つの顔を持ちます。守之助は義父・精一のふるさと愛を良く知っていて、なにか形あるもので父のふるさとへ貢献できないものかと考え、盛岡市などとも協議して岩山に展望台を建設することにしたものです。設計した息子・昭一の技術は、いま建築のプロが見ても、当時良くぞこういうデザインを実現したものだと驚くほどの画期的なものだったと言われます。
守之助の死後、卯女は亡夫の願いを実現しようと考えました。当時(1976年)の日本には重要課題が山積していましたが、それらはいずれも、総合的な学術振興なくしては満足な解決の困難な問題である、守之助の遺業として、財団法人鹿島学術振興財団を設立しようというものでした。偉いですね。50年前ですよ。今の日本に足りないエネルギーと奉仕の精神が当時は有った、だから日本はグイグイと発展していた、と言えるでしょう。卯女は鹿島建設三代目社長となり、息子・昭一は六代目です。

■ 鹿島建設との関わり
澤藤隆一が勤務した会社は創業者の娘婿が二代目社長で、中興の祖と言われました。いま皇室の存続の問題で国会でワイワイやってますが、男系とか女系とかそんなこと議論すること自体オカシイですね。存続するためには優秀な血が必要、男は女に選ばれるものというのは動物の基本です。何故なら子孫は女しか産めないからです。創業者には息子も居ましたが、娘が社員の嫁になり、後継者として娘の夫を社長にして息子は常務でした。会社を発展させるための決断でしょう。したがって二代目社長は創業者とは姓が違います。この二代目社長は、自分限りで同族経営は止めると宣言し、実際にそうしました。経営者の集まりで鹿島建設と親しくなったのは、守之助さんが自分と同じように社長の娘と結婚して社長を継いだという境遇からかもしれません。以来、本社ビルも鹿島建設に依頼し、エレベータのついた自宅まで鹿島建設に発注しました。仕事面でも鹿島建設と交流が深まり、澤藤隆一も役員さんに引き合わせて頂いて、赤坂の本社によく通ったものです。広島県のダム建設時にコンクリートの強度を監視するシステムや、ビル空調で省エネ大賞を頂いて、鹿島建設の専務さんやサブコンの役員と共に筆者が社長代理で授賞式に出席したりしました。岩手県が鹿島建設と親しいことも良く知っていましたが、それはふるさと愛のお蔭だということで、筆者も高校の先輩・鹿島精一さん(旧姓葛西、盛岡中学校明治25年次、第6期、通算8回生)同様岩手県人連合会、在京盛岡広域産業人会、在京雫石町友会、在京白堊会などの役員をしており、ふるさと愛は同様です。お金はかかりますが、自分を育ててくれたふるさとのため、元気な限り頑張ります。こういう活動は人のためならずです。イベントを企画したり準備したりするためにはプランを練り、会話したり、書き物をしたり、走り回ったり、もちろんお金も使います。しかしそれが前頭葉を活性化して元気でいられる秘訣だと信じています。我が周りでも、奥さんを亡くされた人がみるみる老化して間もなく死去という事例が多いですが、夫を亡くした妻は元気なのが普通です。それは何故かというと、夫を亡くしたら女友達との会話や行動が増えて活性化するからです。稀に妻に先立たれても元気なおじいちゃんが居ますが、そういう人は社会に関わる活動をしている人です。
■ シンポジウムの内容
本シンポジウムは、岩山展望台を登録有形文化財として保存するための機運醸成を目的とし、7名の登壇者がそれぞれの立場から展望台への思いと価値を語りました。その中で、岩山展望台という建造物が単なる公園施設ではなく、複数の価値軸を併せ持つことが浮かび上がりました。
三沢直樹氏(鹿島建設/司会)は、展望台の由来を語りました。鹿島精一記念展望台として1962年竣工して盛岡市へ寄付、老朽化したので2018年に改修したのもすべて鹿島建設が費用負担したこと、また展望台建設の経緯などを語られました。
主役の三舩康道氏(希望郷いわて文化大使、NPO法人歴史的建造物とまちづくりの会代表、ジェネスプランニング椛纒\取締役社長、盛岡一高S43卒)は、登録有形文化財制度(1996年創設)の意義を解説してくれました。指定文化財が半世紀で約3,000件だったのに対し、登録制度では既に約15,000件に増え、日本が「文化財後進国」を脱しつつあると述べました。登録は所有者側からの申請というボトムアップ型であること、外観保存が基本で内部公開義務がなく活用しやすいこと、そして昨年8月に岩山展望台の有形文化財登録要望書を提出済みであることを報告されました。
久美沙織氏(希望郷いわて文化大使、作家・軽井沢町在住、盛岡一高S53卒)は、天神町(岩山の麓)で過ごした幼少期のスキー経験や、裏山としての岩山の記憶を語りました。父の仕事の関係で頻繁に引っ越ししたそうですが、岩山展望台は360度の景観が見られ、凄く盛岡市民にとって幸せな施設であることを語られました。盛岡市は、他の地方都市同様チェーン店が並ぶ風景も一部あるが、まだまだ歴史的な風景が残っている貴重なまちであり、それを眺められる岩山展望台もまた貴重なもの、是非今後も保存して頂きたいと述べられました。
荒木田勝氏(アジア防災センターリサーチフェロー、神戸市、盛岡一高S57卒)は、防災の視点から、高台である岩山を災害を「面」で捉える監視拠点として活用できる可能性を提示しました。伊豆西海岸のテラッセ・オレンジ・トイ(災害時の避難タワー、平時は観光資源)という複数目的施設や紺屋町番屋を例に、文化財と防災拠点の二重の役割という新しい切り口を示しました。
直島昌代氏(愛ケアセンター西見前所長)は、三舩康道氏の弟さんが東京、埼玉で仕事されていたものの、病気でふるさと盛岡の愛ケアセンターに移住してこられたことを紹介されました。岩山は盛岡市民にとって楽しい場所、その盛岡は民間介護施設が多くて競争が激しいこと、ただ東京などと違って物価が安いので利用料金も安く、是非移住してきて欲しいと述べられました。介護職員不足で外国人も増えたそうです。岩山展望台は想い出の施設であり、是非後世に残して行きたい施設だと強調されました。
勝部民男氏(株式会社三衡設計舎会長、前岩手県建築士会会長、盛岡一高S40卒)は、屋根を持たないため長く「構造物」扱いされてきた展望台を、モダニズム建築の典型として再評価されました。正三角形平面・厚さ90cm・高さ約11mのコンクリート壁を3枚積み上げた「壁柱」構造であり、菊竹清訓のスカイハウスと同時期の先駆的作品として、建築史的に極めて貴重だと論じられました。コルビジェの「機能主義」理論が近代建築理論を牽引し、日本では前川國男氏(1905〜1986)他がフランスでその理論を学び、日本で展開したこと、丹下健三氏(1913〜2005)がそれを継承したことを紹介されました。佐藤功一氏(1878〜1941)が築いた早稲田建築は村野藤吾氏(1891〜1984)や菊竹清訓氏(1928〜2011)に引き継がれ、菊竹清訓のスカイハウスは高く評価されました。鹿島昭一氏(1930〜2020)の設計した鹿島精一記念展望台は日本のモダニズムの先駆けとなる建造物だと紹介されました。そして後世に残すべき稀少、貴重な文化財であると強調されました。
滝村敏道氏(盛岡市都市整備部長)は、菊の司酒造の跡地に高層マンションが建ち、都市景観が変わって「盛岡らしさ」が失われつつある現状に触れ、岩山公園(都市計画決定は昭和39年、整備は計画の半分程度)全体のなかで展望台を位置づけたいと述べられました。また老朽化で危険となった事で鹿島建設さんが改修してくれて、改めて盛岡市民や旅行者たちが安全に使用できることに深く感謝していると述べられました。岩山は里山であり、ここを公園として輝けるまち盛岡の象徴としていきたいと述べられました。
今後文化財登録ロードマップを作り、「行政」、「学術機関(大学・学会・専門家)」、「民間企業(鹿島建設・地元事業者)」、「市民(住民・学校・メディア・クリエイター)」の四つの立場から、必要なアクションを取ろうという話になりました。市民やNPOの取り組みとして、InstagramなどSNSでの発信も有効であること、岩手日報社などメディアに協力してもらうことも重要です。
