「在京白堊会第31回総会の思い出」

在京白堊会50周年記念誌原稿のためにネタ集めに協力ください 出稿はに有り
2016年12月

我らが幹事年の2000年の第31回総会は5月12日(土)フロラシオン青山で行われ、二百数十名の参加で、母校から三田信一校長も参加、アトラクションでは新校舎や今年の新入生の応援歌練習風景を紹介したビデオが上映されるなど、幹事年次のアイデアをこらした企画で盛り上がりました。締めは恒例の校歌放吟。参加者一同、高校時代にタイムスリップし、楽しい時間を過ごしたと「在京白堊会報第9号に載っています。盛岡から谷藤文明代表幹事以下十数名が駆けつけて、大役勤め上げた二次会では皆で肩を組んで「ああ愉快なり」を歌ったとあります。ところが当43会ホームページも2001年以降しか画像が無く、2000年の総会は「写真が無い」と書いてあります。皆で思い出して澤藤までネタください→メール。写真持ってる人いませんか?あったらスキャン画像下さい
毎年在京白堊会総会は毎年50歳年次が幹事で行われます。我らが幹事だったのは2000年でした。あれからもう16年、経ちました。第31回総会のこと、皆さんの記憶の中から引っ張り出して、覚えていること何でも教えて下さいませんか?
下記に、皆さんから教えていただいたこと列挙して行きます。

演出として、玉澤健児君と邨野継雄君がその時点の一高の様子を、わざわざ盛岡一高まで取材に行って、ビデオで紹介してくれたこと、応援歌練習が我々の時とは随分違っていたことが印象的でした
白堊43会の在京サイドは玉澤健児君が主幹事、まとめ役が大澤邦雄君で、終わって来年への引継ぎの時は、44年代表の佐々木豊文さん(美枝子さんの夫)に玉澤健児君が引き継ぎました
盛岡から来たのは43会代表幹事の谷藤文明君のほか吉田良一君や作山文昭君、金子徹君が居たなぁ〜
盛岡からは岡田和士君や細田敬一君も来たよ
若松信行君だったと思いますが、幹事に名前を入れといても良いか、と言われて承諾したのだったと思います。盛岡での同窓会に出席したら、バスケット部の小原君も来ていて、小生が幹事になっているから来たと言ってくれ、その程度の効果はあったのかと思った次第です(澤藤注・・・盛岡での同窓会ということは2000年ではない?)
米国に出向中で、お手伝いしておりませんので、情報はありません
当時転勤で東京に居らず、総会には欠席でした
当時は、京都での勤務時代で会には不参加でした
第31回総会には幹事だから出てくれと言われて出席しましたが、余り記憶に残った事は有りません。只、先輩の皆さんは本当に偉そうな人ばかりで余り居心地が良くなかった記憶が有ります
司会は森田君と佐々木(三浦)美枝子さんで、和服姿で颯爽と振舞われていた美枝子さんの姿が思い出にあります。現役大臣だった玉澤徳一郎さん(S31)に話をして貰うために、森田君が適当な理屈をつけて(国会議員、大臣というだけでスピーチをさせないのが会の慣例)、21年卒、31年卒、41年卒、51年卒の代表にスピーチをして貰いました。アトラクションとして映像展示するための取材で、夏に初めて新校舎を訪れました。裏方業務は忙しかったですが、楽しかったですね
在京白亜会(総会及び43会)に参加するきっかけになった年でしたが、特にネタになるような事柄は思い出せません
50歳の時、総会の幹事の年でしたが、その準備のお手伝いに参加したことを思い出します。あれから17年も経ったのですね。ついこの間のことのような気がしていたのですが(笑)
引継会では昔懐かしいバレー部の先輩たちとお会いして感激したことを覚えております。また白堊会会員に案内書を送る作業は単純ながら和気藹々と手際良く片付けられたと思います。大手町に勤務していた方がビルの一室を工面してくださって皆で集まって封書の用意をしました。在京白堊会当日は盛岡からも同級生が大勢駆けつけてくれましたよね。本当にありがたく気持ちが高ぶりました。幹事をした時はもう50歳になって、充分に年をとってしまったと感じていたのですが、今考えるとまだまだ若かったのですね。盛岡一高生は卒業してから本当の一高生になると誰かが言っていましたが、この歳になってよくわかってきました。皆さんとっても絆が強い!
玉澤さんと大澤さんと進行の打ち合わせをしたことを覚えています。具体的に何を話し合ったかはちょっと思い出せません。確か司会をしたように思います。わー!と怒涛のごとく進み、元気、意気軒昂!で終わった印象です

結局写真画像は集まりませんでした 在京白堊43会の現況と、第31回総会(2000年)の模様は澤藤が出稿しました
   二十世紀のトリ第31回総会 (在京白堊四三会 澤藤隆一)
 二十世紀の最後を飾る二〇〇〇年の第三十一回在京白堊会総会の幹事は、昭和四十三年卒の白堊四三会が務めました。毎年母校創立記念日の五月十三日に開催するのが恒例でしたが、土曜日のため、前日の十二日(金)青山フロラシオンで行うこととしました。この年は母校が誕生して百二十年の節目、なんとしても意義深い総会にしたいと考えて、玉澤健児君を主幹事とした我が四三会有志は、第三十回総会終了直後から毎月幹事会を持ち、企画を練り準備を致しました。前年暮れに四代目となる新校舎が完成したので、在京の皆さんにその威容を紹介し、現役盛岡一高生の様子などをビデオで紹介すべく数人で盛岡へ出掛けました。初々しい新入生諸君の応援歌練習の光景もビデオに収めました。
 大先輩から卒業間もない大学生まで、幅広い年代の方々に集まって欲しいと考えて、会員に提供頂いたビルの一室で在京白堊会員に案内書を送る作業をしたときは、和気藹々と手際よく片付けて「さあ飲もう!」・・・五十歳時の幹事年度を機に同期の絆が強まるというこの仕組みを作った人はエライ!と思ったものです。
 総会当日には盛岡から四三会谷藤文明代表幹事を始め十数人が駆け付けてくれました。司会進行は森田健二君と佐々木美枝子さん、参加者は二百数十名、母校から三田信一校長も参加、ビデオ上映では新校舎にどよめき、応援歌練習が昔と全然違うと驚きの声が上がって盛り上がりました。昭和二一、三一、四一、五一年卒代表にスピーチを頂きました。三一年卒は当時現役大臣だった玉澤徳一郎さんでした。締めは恒例の校歌放吟、楽しい時間が過ぎて、玉澤健児君から次年度幹事代表四四年卒佐々木裕さん(美枝子さんの夫)に幹事の引継ぎ状を渡してお開きとなりました。大役を終えた四三会は、二次会で肩を組んで輪になって「ああ愉快なり」を歌いました。これを機にHPを立ち上げました。
   在京白堊四三会の活動    澤藤隆一
 昭和43年卒は盛岡と在京でそれぞれ会を持っており、代表は谷藤文明君です。盛岡では頻繁に会合しています。在京は20代半ばに小川英三君が呼び掛けて集まり、飲み会はもちろん、海水浴にも行っておりました。在京白堊会には虎の門の星野健秀法律事務所や新橋の玉澤健児税理士事務所が拠点として貢献してまいりました。やがて東京に赴任してきた大澤邦雄君が小川英三君に代わって世話人となり、同期の集まりや城郭探訪などを催して来ました。玉澤健児君が在京白堊会の事務局長に就任すると大澤邦雄君が事務局として支える関係で43年次幹事は森田健二君と澤藤隆一が担当することになりました。やがて大澤君がふるさとに帰ることになり、在京白堊四三会の世話人は、発足当初からのメンバーである澤藤隆一に振られました。毎年2月第一週の土曜日に都内で新年会を行っております。これは盛岡の四三会が1月最終週に新年会を行う関係で、ダブらないようにしているのです。例年30名前後の参加ですが、既に在京常連の9名が故人になっております。2000年は第31回在京白堊会総会を幹事年度として担当しました。これを機に在京白堊四三会のホームページを立ち上げ、澤藤隆一が管理人を担っています。合同の四三会は2005年8月14日盛岡で「出会って40年、新たな船出を!」と題して、石川啄木生誕120年を記念して母校に歌碑を寄贈し、遊座昭吾先生に歌碑の説明を頂きました。当時の校長が四三会の鈴木文雄君でした。懇親会には赤沼、安藤、石川、遊座の四先生にお越し頂きました。2008年は還暦祝い会として盛岡で合同開催しました。更に2015年5月16日に「君と出会って50年」の会を行い、母校に啄木歌碑説明板を寄贈し、100名の懇親会を行いました。最近では9月の秋分の日に行われる東京タワーさんままつりで上京する大船渡市長の戸田公明君を囲む会も行っています。