( 目 次 )
序 章 ・・・ はじめに
第1章・・・ 札所、その起源
第2章・・・ 地域、宗派、順番等
第3章・・・ 西国の観音菩薩について
第4章・・・ 巡礼のノウハウあれこれ
第5章・・・ 巡礼を終えて…『我が西国巡礼記』
@ 「満願の日・・・1999/4/24」
A 「満願は天橋立で」
B 「発端・・・京都大文字送り火」
C 「たかがスタンプラリー、されど巡礼」
D 「1998/8/29の日記より」
E 「1998/8/30の日記より」
F 「お御籤」
G 「街道を行く」
第6章・・・ 写経への道
第7章・・・ 大悲閣
第8章・・・ 十界
終 章・・・ 【西国巡礼の軌跡】
序 章
はじめに
本書は初めて西国33札所を巡礼した一私人の紀行録に過ぎません。
2度目の大阪勤務(単身赴任)の在任中に、1998年8月16日京都大文字焼きの日から巡礼を開始し、1999年4月24日京都府天橋立での満願に至るまで約8か月間の足跡を留めたものです。
第1章から第4章まではQ&A形式とし、テーマ別に素朴な質問と私個人の体験等に基づいたコンパクトな回答を心掛けた積りです。そして第5章は、特に印象的だった札所巡礼を抽出し紀行文として掲載いたしました。第6章は必然的に写経への道、第7章は「大悲閣」に纏わる偶然のハプニング、第8章は目から鱗の「十界」を取り上げました。
最後に終章として、私の巡礼の軌跡を時系列的に揮毫も含め一覧表として付記致しました。
関西に転勤の方々がもし寺社巡りや西国巡礼に興味を持たれるような折に、標の一つにでもなれば幸甚です。また、【日本百観音(西国33+坂東33+秩父34)】という括りから見ると、関東人にとっては関西が遠く、逆に関西人にとっては関東が遠いため、観光の感覚では回り切れないと思います。なお、宗教の観点からは、四国88ヶ所が弘法大師の真言宗色が濃いのに比べて、日本百観音は宗派を問わないことが大きな特色とも言えるでしょう。
関 雄 幸 拝
1999年6月 記す
第1章 札所、その起源
Q1 |
「西国」の範囲、地域は? |
A1 |
「西国」と称したのは東国(関東)の人々であり関西の人が自ら称したものではありません。対象地域としては、南から和歌山県、奈良県、大阪府、京都府、滋賀県、兵庫県そして何故か一つ最後だけ岐阜県の7府県です。 |
Q2 |
西国33巡礼と四国88巡礼の違いは? |
A2 |
西国と四国の決定的な相異は、地域は勿論ですが巡礼対象とする寺のご本尊(仏様)によります。即ち、西国は33札所全てが「観音」、正確に言うと「観世音菩薩」であるのに対し、四国88札所は「観音」の他に「如来」や「不動明王」が混在しています。それと四国は弘法大師の縁で真言宗寺院です。因みに、「如来」は悟りに至った最終形で「観音菩薩」より上位に立ちます。一般に菩薩は如来の一歩手前で自己の悟りを深めつつ現世の衆生にも近く存在し、衆生の悩み、苦しみに手を差し伸べてくれる仏といわれています。後に触れますが、「観音菩薩」は6菩薩の一つに当たります。 |
Q3 |
西国は33? |
A3 |
「観音」は古来より33の姿に身を変えて衆生を救済してくれると言われているからです。ただ、西国には番外札所が3か所あるので巡礼回数としては計36回を数えます。先祖の供養も33回忌が一つの区切りの目安とされているようです。 |
Q4 |
四国は88? |
A4 |
四国88札所は結論から言えば、真言宗教祖である空海上人(弘法大師)が行脚した寺が88か所であったということです。88という数字は、88の煩悩を取り払い且つ88の功徳を得るという意味があり、一般的にも米寿と か末広がりとか伝統的に縁起の良い数字のようです。 |
Q5 |
西国巡礼の始まりは? |
A5 |
奈良時代前期、養老2年(西暦718年)が起源とされています。奈良長谷寺の徳道上人が重病仮死状態の際、夢に閻魔大王が現れ33霊場を広めるよ う委嘱したのが巡礼の始まりとされているようです。その関係で当時第1番 札所が長谷寺(奈良県、現在第8番)であったという説もあります。因みに、長谷寺の直ぐそばにある「法起院」の本尊は徳道上人であり観音で はないが由緒ある寺として「番外」に挙げられています。 |
Q6 |
最初から33札所は特定されていた? |
A6 |
その後平安時代中期に花山天皇が熱心に巡礼し広まったとされています。但 し、その頃はまだ現在の33札所が確立されておらず、第1番が長谷寺(奈良、現8番)或いは中山寺(宝塚、現24番)と言われたり、第33番が三 室戸寺(京都、現10番)という時期もあったようです。結局、現在の33札所が確立したのは室町時代後期から江戸時代初期にかけ ての頃といわれています。
(注)花山天皇は悲劇の天皇と言われ、984年17歳の若さで皇位についたが19歳
にして仏門に入り西国巡礼を続けました。 |
Q7 |
他にも札所はある? |
A7 |
有名なのは「坂東33札所」(関東7都県、東京・浅草寺他)、「秩父34札所」 (埼玉県秩父市)。「西国33札所」と合わせこれら3つ全てを行脚すると丁 度合計100となり大満願ということになります。秩父はもともと33でし たが縁起の良い百にするため34としたようです。そこで最も有名な「四国 88か所」に対し「日本百観音」と称されています。エリアでいうと、四国88ヶ所はその名の通り四国4県ですが、日本百観音は関西と関東を股にかけますのでかなり広域となります。関西では他にもマイナーですが「新西国33か所」、「仏塔古寺18尊」、「摂津88か所」、「大阪33か所観音巡り」、「都七福神札所」、「京都十三仏」等々があります。また地方でも例えば「盛岡33か所」のようにご当地独自の札所があるようです。 |
第2章 地域、宗派、順番等
Q1 |
西国33札所の地域分布は? |
A1 |
最多は京都府で11札所(京都市内8、宮津市1、舞鶴市1、亀岡市1)、全 体の三分の一を占めます。次いで、滋賀県6(18%)、大阪府・奈良県・兵 庫県が各4(各12%)、和歌山県3(10%)、岐阜県1の順です。 |
Q2 |
宗派は? |
A2 |
百観音は般若心経を共通教義とするため宗派は問わないとされています。 ただ、西国33札所を敢えて分類すれば、寺社により真言宗15寺(45%) 天台宗12寺(36%)が双璧で他に6寺(法相宗他)あります。 観音様は宗派を超越しているので巡礼者にとっても宗派の如何は関係ありません。 |
Q3 |
第1番青岸渡寺(和歌山県)から最後33番華厳寺(岐阜県)までの順路? |
A3 |
この順番は東国からの「お伊勢参り」や「熊野詣」が盛んになった室町時代末期から江戸時代初期にかけてのことといわれています。つまり紀伊半島を伊勢から熊野にわたり、直ぐ近くの和歌山県那智の「青岸渡寺」が第 1番、北上して和歌山市の第2番「紀三井寺」と南から始まり奈良県→大 阪府→京都府京都市内から西進して兵庫県→北上して日本海側京都府北部 (天橋立、舞鶴)→滋賀県(琵琶湖)→近江八幡、最後は東進して岐阜県大垣市 から養老の滝、谷汲山第33札所華厳寺を経て東国に戻るルートだったようで す。 なお、巡礼の順番は必ずしも1番から33番でなくともよいとされています。つまり「四国88か所」でも88番から巡る逆回りがあるように、巡礼者の事情や居住地、巡礼可能時期等に合わせ順不同で構わないとされ、要は最終的に33札 所を全て回ればよいとされています。特に最終33回目の満願となる寺を巡礼者 の個人的な希望地(例えば温泉地とか)に合わせるという方々もいるようです。 |
Q4 |
有名な札所(寺)は? |
A4 |
京都や奈良は修学旅行などでも著名な寺が多いのですが、西国33札所の場 合京都市東山の「清水寺」(第16番)、同じく「六波羅蜜寺」(第17番)、奈良県 「壷阪寺」(第6番)、和歌山県那智勝浦の「青岸渡寺」(第1番)等々。なおキヨミ ズデラと読むもう一つの「清水寺」(第25番)が兵庫県社町にあります。 |
Q5 |
ユニークな札所(寺)は? |
A5(1) |
船に乗らないと渡れない札所があります。第30番「宝厳寺」は琵琶湖北部の竹生島(チクブジマ)にあり、この寺と隣接する竹生神社以外は住人が居らず、実質的には無人島です。 |
(2) |
「馬」の観音様。京都府東舞鶴市にある第29番「松尾寺」のご本尊である「馬頭観音」は日本全国の競馬関係者(JRA、馬主、調教師、騎手)そして全国の競馬ファンから崇められています。日本ダービー等の重賞レースの前には多く のファンがこの寺に勝利或いは馬券的中を祈願してお参りするそうです。 |
(3) |
抜群の眺望はやはり第1番「青岸渡寺」でしょう。境内から遠望する那智の滝は高さ120メートルの断崖絶壁です。そして勝るとも劣らないのが第28番「成 相寺」から見下ろす天橋立でしょうか。 |
(4) |
本堂が6年前の火災で焼失し仮設中の寺があります。安土の第32番「観音正寺」。ここの巡礼道は石段なのですが長い年月の風雪に曝され崩壊がひど く、岩場の登山並みのきつさがあります。人によってはここが一番の難所との 評もあります。また上りのきつさの双璧は京都市伏見区の第11番「上醍醐 寺」でしょうか、連続約1時間の登りは息が上がります。 |
(5) |
最多石段808段は、琵琶湖東南岸、近江八幡市にある第31番「長命寺」急こう配の石段の連続はきついものがあります。されど息を切らして上り詰めると眼下の林から琵琶湖を一望でき、これが絶景かな!だから長命が確保されるのだそうです。前出の竹生島(宝厳寺)から船で南下するとここ長命寺港に着きます。船着き場から直ぐに808の石段が始まります。 |
(6) |
紅葉と勝ちダルマで著名な大阪府箕面の第23番「勝尾寺」は、商売、試験、病気、選挙、スポーツ、芸事など人生のあらゆる勝負の願い事で参詣する人が多いようです。行きも帰りも売店を通らないと参拝できないルート設計が商魂たくましくやや気にはなりますが・・・。 |
(7) |
平安時代、紫式部が居住し源氏物語を書いていた寺が、滋賀県大津市にある第13番「石山寺」です。秋の紅葉の名所でもあります。また1回50円で
鐘を突かせてくれる珍しい寺でもあります。 |
(8) |
どこの札所も秋の紅葉の名所ですがその中でも「花の寺」として有名なのが 京都府の第10番「三室戸寺」と第20番「善峰寺」。特に京都西北の第20番
から見下ろす京都の街並みは圧巻です。関西ではやはり可能なら高台の家 に住みたいものです。俳優松方弘樹の大豪邸が途中の道沿いにあります。 |
(9) |
奈良県明日香村にある第7番「岡寺」は周りの古墳群(高松塚や石舞台)も近く春秋のハイキング散策には最適の場所です。聖徳太子で有名な橘寺も至近にあります。 |
(10) |
奈良県高取町にある第6番「壷阪寺」は、浄瑠璃「壺阪霊験記」で有名です。話は江戸時代初期、盲人の沢一とその妻お里が主人公。沢一はお里が毎夜家を抜け出すのを誰か情夫ができたのではと疑う。在る夜、お里の後をつけていくとお里は夫の目を治して欲しいと壷阪寺の観音に願をかけていたのだった。それを知った沢一は自分を恥じお里の隙を見て裏山の谷 に身を投げてしまう。絶望の余り後を追ってお里も飛び降りるが、突如観音現れ二人の命を救いお里の心を汲んで、沢一の目を治して下さったとい う人情話でした。 |
Q6 |
西国の寺の建立時代は? |
A6 |
時代でいうと奈良時代、平安時代。西暦では概ね6世紀末から10世紀にかけてということになります。その中では8世紀、700年代の奈良朝建立が多く見られます。
参考までに、宗派で見ると西国は真言宗、天台宗の寺が大宗で、坂東及び秩父は、時代が進んでからの建立につき禅宗が多数派を占めます。 |
第3章 西国の「観音菩薩」について
Q1 |
観音の種類? |
A1 |
「十一面」、「千手」、「千眼」及びこれらの組み合わせが多いようです。例えば「十一 面千手観音」、「千手千眼観音」とかでこの3観音が関係している観音の数は重複 しますが32(内「十一面」12、「千手」14、「千眼」6)になります。因みに「千手」といっても実際には42手(本)が普通のようです。「十一面」は頭の上に小さな観音の顔が11載っており、正面3が穏やかな慈悲の 顔、向かって左3が憤怒の顔、右3が一見穏やかながら牙をむいた顔、後ろ1が大笑いの顔、頂上1が如来の温顔です。十一のご利益を与えてくれるそうです。サッ カー関係者は十一面観音を大事にされてはいかが?参考までに、「坂東33札所」では十一面観音が圧倒的に多いのです。 「千眼」は我々の目には見えないのですが観音像の掌に刻まれているようです。 |
Q2 |
その他の特徴は? |
A2(1) |
1種類の観音が3札所
・「馬頭観音」・・・第29番「松尾寺」(京都府):馬の観音様
・「准てい観音」・・・第11番「上醍醐寺」(京都府):厄除け、延命、降雨、子授け
・「不空けん索観音」・・・第9番「興福寺南円堂」(奈良県):落ちこぼれを救済 |
(2) |
3札所共通 : 「聖観音」(ショウカンノン) 観音の基本形。左手に蓮華の蕾を持ち右手でそれを咲かせ ようとする形。悟りきれない人々の煩悩を開かせようとする 仏心を示します。西国よりも坂東に多い観音。
・第21番「穴太寺」(アナオジ)・・・京都府亀岡市
・第26番「一乗寺」(イチジョウジ)・・・兵庫県加西市
・第28番「成相寺」(ナリアイジ)・・・京都府宮津市天橋立 |
(3) |
6札所共通 : 「如意輪観音」(ニョイリンカンノン) 字の通り意のままにして下さるという有難い観音様。
・第1番「青岸渡寺」(セイガントジ)・・・和歌山県那智勝浦市
・第7番「岡寺」(オカデラ)・・・奈良県明日香村
・第13番「石山寺」(イシヤマデラ)・・・滋賀県大津市
・第14番「三井寺」(ミイデラ)・・・滋賀県大津市
・第18番「六角堂」(ロッカクドウ)・・・京都市中京区
・第27番「圓教寺」(エンギョウジ)・・・兵庫県姫路市 |
Q3 |
「観音」或いは「観世音」の意味するところ? |
A3 |
小生なりの解釈によれば、音は本来聞くものですが、「観音」は、現世の衆生の発する悲鳴、嗚咽、悩み、迷い、悲願といったものを先ず音で聞くのですが、それだ けでは手を差し伸べて救済には入りません。つまり、音だけで救済の要否を判断 すると声の大きい衆生だけがその対象となってしまいます。一方では、声も出せずに黙々と悩んでいる衆生もいるわけですから・・・。 苦しんであがいている衆生がどうしようもなくなって最早地獄池に落っこちそうに なった時にその姿を観て初めて救ってくれるのだそうです。従って、音を聞いて出動してくれるのではなく、音を聞きながら且つ観たうえでということのようです。「観世音」とも称するのは、現世を観る若しくは現世の音を観るということかもしれません。 |
Q4 |
「菩薩」と「如来」の違いは? |
A4(1) |
「観音菩薩」は基本的には6菩薩の一つです。他5菩薩は、「普賢菩薩」、「文殊菩薩」、「日光菩薩」、「月光菩薩」、「勢至菩薩。尚この他に「地蔵菩薩」、「弥勒菩薩」もあるようですが・・・。 |
(2) |
「如来」は基本的には三つあり、「釈迦如来」、「薬師如来」、「阿弥陀如来」。尚この他に「大日如来」、「盧舎那仏」等もあるようですが・・・。 |
(3) |
「如来」は全て悟りの境地に到達した最高位の仏様。「菩薩」はその一歩手前の域で現世の衆生と近いところにいてなお「如来」への昇進を目指しつつ、衆生に手を差し伸べてくれる有難い仏様です。我々が一般弟子とすれば、現役の師匠とでもいえましょうか。より簡単に言えば「悟りを求める人」が「菩薩」です。 |
(4) |
「如来」と「菩薩」は三尊として基本的パートナーが次のように決まっていま す。
・【釈迦三尊】・・・「釈迦如来」+「普賢菩薩」+「文殊菩薩」
・【薬師三尊】・・・「薬師如来」+「日光菩薩」+「月光菩薩」
・【阿弥陀三尊】・・・「阿弥陀如来」+「観音菩薩」+「勢至菩薩」 つまり「観音菩薩」は「阿弥陀如来」の一派というわけです。 |
Q5 |
観音菩薩は男性、それとも女性? |
A5 |
これについてはどの書物にも記載がなく不明です。仏像の表情だけを観察すると大概が柔和な表情なので女性みたいにも思えるのですが・・・。ただ一般的にはどうなんでしょうか? |
Q6 |
「番外札所」とは? |
A6 |
西国の番外は3札所があります。何故番外かというと、ご本尊が「観音」ではないからなのですが、次のような由緒があります。
・「法起院」・・・西国33札所巡礼の開祖と言われる徳道上人隠棲の寺で、本尊が徳道上人そのものです。
奈良市桜井市にある第8番「長谷寺」の直ぐ側にひっそり とあります。
・「元慶寺」・・・花山天皇出家の寺として有名。本尊は「薬師如来」です。京都市山科区。冬に行くと冷え冷えとします。
・「花山院」・・・花山天皇隠棲の寺。本尊は「薬師瑠璃光如来」です。兵庫県三田市。
麓の尼寺には同天皇在位の頃仕えた11人の女官とお后を祀る十二尼妃の墓があります。 |
第4章 巡礼のノウハウあれこれ
Q1 |
巡礼時の服装は? |
A1 |
お遍路さんのような菅笠、白衣に笈摺(オイズル)、手甲脚絆、金剛杖、草鞋といった出で立ちは全く不要です。夏場なら帽子、Tシャツ、短パン、スニーカー、リュックサックのラフな姿でもかまいません。なお、札所は大概低山の上にあることからその三分の一程はハイキング・コースに組み込まれていることが多いようです。従って、靴はトレッキングシューズ等長時間歩きやすいものが無難と思われます。 |
Q2 |
巡礼費用は? |
A2 |
交通費は別として、巡礼の証に「納経帳」に御朱印を戴くのに1札所一律300円。これに単純に33を掛けると9,900円ですが、実際には第33番「華厳寺」だけは御朱印が3枚必要で、更に番外3札所も含めると計38個、11,400円。この御朱印料は戦後からずっと300円のままだとも聞いております。勿論、納経帳は装丁によりますが各札所で1千円から2、3千円程度です。 |
Q3 |
掛け軸は? |
A3 |
掛軸を持って朱印を戴く人も多いようですが、こちらの場合、掛軸そのものの値段が高く(普通で2〜3万円、金粉入りだと5万円とか)且つ満願の後で表装に出すと更に10万円程度費用が掛かります。ただ掛軸は家宝として永久保存される人も多いようです。また掛軸の御朱印代は500円と納経帳より高くなります。 |
Q4 |
納経帳とは? |
A4 |
納経帳は御朱印帳ともいわれますが、納経帳を納経所に差し出すと先ず当該札所の、マークたる朱印スタンプが押され、その上に毛筆で寺名や奉拝日が記されます。また観音堂を示す「大悲殿」とか「大悲閣」といった文字が各々揮毫されます。 因みに同じ札所で2回目以降の納経は奉拝日のみ追記されます。料金は300円。さて、ご朱印を頂戴する行為は本来的には参詣時に自ら持参した写経を納める、或いはその寺で写経することに対する見返りだということです。つまり、ご朱印料が300円なのではなく、納経させていただくこと自体が納経料なのだそうです。確かに納経所の近くの納経箱には写経文が山積されているのをよく見かけました。なおここでいう経とは「般若心経」のことです。『納経帳にご朱印をもらうためにだけ参詣されるのは、俗世のご利益だけを期待することと同じであり厳に慎まれたい』と明示している札所が1か所だけありました。番外の「花山院」です。それを見た時には納経すべき写経文もなくドキッとしたのですが、丁度2月 の吹雪の悪天候下での参詣だったこともあり、それに免じてしっかりとご朱印を受けまし た。 |
Q5 |
御詠歌とは? |
A5 |
33札所全てに夫々の和歌が付せられています。例えば、天橋立第28番「成相寺」の場合、『波の音 松のひびきも 成相の 風吹き渡す 天橋立』とあります。これら御詠歌は納経帳の各札所別に紹介文と一緒に印字されています。また、御詠歌専用の納経帳と 掛軸が別途ありご朱印料はやはり300円、500円。 |
Q6 |
納経帳に揮毫される字は? |
A6 |
達筆の揮毫で草書体なので判読しにくいのですが、大概は「大悲閣」や「大悲殿」と記されます。両者とも「観音堂」を意味します。後掲「巡礼の軌跡」に全札所の揮毫を付記しました。「大悲閣」の意味については説明を要しますので後述します。 |
Q7 |
交通の便は? |
A7 |
最も効率的なのはマイカー利用。一日で複数の札所を回る時は移動のロスタイムを最小にできます。但し第30番「宝厳寺」だけは船でしか行けません。基本的には電車、バス、徒歩での巡礼がお勧めですが、ピンポイントで行く場合も、また複数移動する場合も、乗り換え等かなりのロスタイムが発生します。季節や時間帯によっては駅前からのバス便が一日2便というような辺鄙なところもあります。従って出かける際には常に空き時間をつぶすツール、例えば文庫本とかウオークマンも必需品です。場所によっては電車の乗り換え待ちが2時間とか夕暮れの無人駅の待合室にたった一人で1時間半とか、帰りの最終バスに乗り遅れて徒歩で最寄りの駅まで歩いたりと色んなことが起こります。でも昔の人はそもそも100%徒歩で33札所を回ったのですから・・・。後で知ったことですが西国33札所の全行程を徒歩巡礼する過酷なツアーもあるようです。私事になりますが、片田舎でのバス停でただ一人ウオークマンから流れてくるモーツアルトやバッハ、ブラームス、メンデルスゾーン、M・ルグラン、A・ギャニオン、F・シナトラ、ジャズのMJQ等々を飽きるほど聞き入りました。 |
Q8 |
日帰りが難しい札所は? |
A8 |
大阪の新大阪駅を起点とする場合、紀伊半島南端にある第1番「青岸渡寺」でしょう。特急電車で紀伊勝浦駅まで片道3時間半かかります。 |
Q9 |
日帰りで纏めて複数札所を回る方法は? |
A9 |
1年かけて西国33札所を10回前後で回るバスツアーがあります。また京都市内だと定期観光バスのルートの中に複数の札所が入っている例もあります。 |
Q10 |
グルメのある札所は? |
A10 |
基本的に札所は寺なので精進料理のイメージで、しかも小生はグルメ派にほど遠く、また 単独行が殆どでしたのでゆったりと味覚を楽しんだ記憶に乏しいのです。夏の炎天下では缶ビールが昼飯代わりとか、コンビニのお握りとか。はたまた近江八幡市の第31番「長命寺」行きの際には、昼飯は大枚をはたいて近江牛ステーキを目標に動き始めたのですが、移動の関係で夕方前の半端な時間となってしまい、同駅前のマクドナルドにて照り焼きバーガーに化けたりとグルメには縁遠いのかと・・・。とはいえ、敢えて思い起こせば以下の通りです。
・第1番「青岸渡寺」:新大阪駅発の特急オーシャンビューで白浜駅を過ぎて車中買
い求めた「海老寿司弁当」。
・第7番「岡寺」:参道に並ぶ「坂乃茶屋」のかやく飯とニュウメン。奈良県明日香村
・第9番「南円堂」:興福寺、猿沢池近くの「塔の茶屋」の茶粥。
・第28番「成相寺」:京都府、天橋立駅近くの活魚料理店「美加野」の魚介網焼。 |
第5章 巡礼を終えて…『我が西国巡礼記』
(1)満願の日1999年4月24日(土)
昨夏(1998年8月16日)、期するところあって京都大文字送り火の日からスタートした西国33札所巡礼の旅は、その後秋の紅葉、冬の木枯らし、吹雪を経て、本年春1999年4月2
4日、京都府天橋立第28番「成相寺」参詣をもって全て完了、満願となりました。
その満願の日に予め作成しておいた般若心経の写経文1通を初めて納経致しました。納経所で「本日をもって満願です」と告げたところ、「ご苦労様でした。ここで満願を迎えられる方は結構多いですよ。写経は確かに奉納させていただきます」との僧侶の言。納経帳にご朱印を戴く間、実は、満願の時には何か記念すべき粗品でも授かるかも・・・と淡い期待を抱いていたのですが残念ながら空振りに終わりました。
当日の天候は霧雨まじりでしたが眼下に煙る天橋立の眺めは絶景、流石は日本三景ならではのものでした。また、小一時間程かけて砂州を歩いて渡りました。この日は同行のパートナーが二人おりました。同じ時期に大阪単身赴任中のF氏とS氏で、先輩のお二人とも天橋立観光だけが目的でしたが、小生の西国巡礼に便乗してお付き合い願ったわけです。参詣後、【祝!満願】を名目に天橋立駅近くの活魚料理店で飲むは、食べるは、の大宴会に様変わりし、帰り際には酔いの勢いで店の仲居さん全員と代わる代わる記念撮影。満願に相応しい充実した1日でありました。なお、この翌月突然逝去されたF氏のご冥福を心からお祈り申し上げます。
(2)満願は天橋立で
本年(1999年)1月には番外の二札所を除き大方巡礼完了のペースでしたが、残り少なくなるとゆっくり回ろうという気分になり、本年元旦、最後は天橋立第28番「成相寺」と決めておりました。
何故そうなったかというと実は天橋立には昨年11月8日行っていたのです。ところが、「股覗き」で有名な笠松公園までケーブルカーで登った矢先、数日前に到来した台風の影響でそこから先の成相寺まで通ずる道が土砂崩れのため車両通行止めと言われたのです。ここからバスに乗れば5〜6分先の所まで来ていながら何という事か。大阪から特急に乗車しここまで3時間強、1万円近くかけているのに・・・。
公園の係員にせっかく来たので歩いても寺まで行きたいと申し出たところ全面通行止めにつき歩行者も駄目との回答。それじゃ孤立したお寺の僧侶たちはどうしているの・・・?嗚呼、天に見放されたとはこういうことか・・・と?
致し方なく、すごすごと天橋立駅まで戻り、宮津市を経て次の予定地東舞鶴市の第29番「松尾寺」へ向かった次第です。恐らく1日俯きながら歩いていたんだろうと。
そして、この新年より思い立ち写経なるものを始めるに至りました。毛筆を手にしたのは恐らく高校時代以来の30年ぶりのことで、写経用の毛筆は奈良興福寺の近くの老舗で買い求めました。と同時に写経の本義たる「般若心経」の勉強を開始することになりました。
(3)巡礼の端緒、京都大文字送り火
今(1999年)を遡る9年前、同じ大阪支店勤務時代には「西国33札所」という名前は知っていましたが、興味も関心もなく、老人たちのお遍路さんみたいに思っていました。ましてやその当時関西はバブルの頂点で沸き立っており、寺回りの風潮はなく、昼はゴルフ、しかも車でなくヘリコプターで、そして日が暮れると夜は大阪梅田の北新地で大宴会。高級料亭は毎晩予約が殺到し、かなり前から押さえておかないと行けないような時代です。飲んだ後、電車で帰宅するような時代ではないので、2次会、3次会どころではなく、起きている間は飲んで、歌って。或いは高級クラブで乾杯して、直ぐ小一時間うたた寝し起こされて、次の店へ行くぞという、そんな今思えば信じられないような時代でした。なおこの時期は家族帯同の大阪勤務でありました。
そして略10年後の昨年(1998年)4月、2度目の大阪支店勤務となった際、年齢も40代後半に至ったせいか、単身生活も落ち着くだろう、秋になったら、きっと暇を持て余すであろう週末を利用して札所巡りでも行ってみよう、とは既に頭の片隅にありました。また、前回の大阪勤務時代に京都、奈良の著名な寺社仏閣は大方訪れていたので、それ以外に何か新しい発見は?との心境でもありました。
ところが、天変地異でしょうか、世の中何が起こるか不可解なもので、昨夏のいわばタ イタニック号状態にあった当行の惨状を見るにつけ、また自分自身の内面も穏やかならぬものとなり、いっそのこと、この不安を契機に巡礼でも始めてみるかという気分に... しかも、8月16日京都大文字送り火をこの目で直に見ておこうと予め予定していたことから、この日が西国巡礼の初日となった次第です。
当日夜に当行京都支店ビルの屋上で大文字を見るという恒例の催しが予定されていたことから、その前に日中京都市内の札所を参詣しました。京都駅前から日帰りで6札所回るバスツアーに乗車し、最初の札所は、第15番「今 熊野観音寺」。ここで恐る恐る納経帳を求めたわけです。なぜ恐る恐るかというと、自分の性分からして一度染まると全て完遂しないと済まないことになりそうだったからです。取敢えず動いてみたものの、余りに爺くさいものであれば一度きりで止めるかもしれないという逡巡もありました。こうして初日に15番から20番を消化しました。
夜8時、まず如意ヶ岳の【大文字】着火、次いで5分後に【妙法】、そして【舟形】、【左大文字】、【鳥居】の順に点火されます。そして【左大文字】着火と同時に最初の【大文字】は残り火だけの状態に変化しています。こうしてビルの屋上から初めて目にした大文字送り火は、次第に消えゆく蝋燭の火の如く目に映り、物事にはいずれ終わりがあるような、そんな無常観、寂寥感を覚えました。困ったときの神頼みとは言わなくとも、世の中の地殻変動にも似た環境の変化に対しては、とても「人事を尽くして天命を待つ」なんていう心境じゃない。やはり、観音様に相談してみようかという素直で諦観にも近い気持ちに傾いていったのであります。
(4)たかがスタンプラリー、されど巡礼
今思い起こしてみれば巡礼というのは一言でいえば「大人のスタンプラリー」みたいなものでした。東京の自宅に帰らない時は殆ど毎週早起きして出かけたものです。つくづく良く出歩いたもんだと思いますが、初回から満願までの通算所要日数は19日、
巡礼回数36回(含む番外札所3寺)、おっと、忘れちゃいけない天橋立の空振りが1回あるので巡礼は37回となります。因みに巡礼1回あたり万歩計は1万5千から2万歩を記録しておりました。冬場の参詣を避けたので初動から満願まで丸9か月の週末巡礼でした。
また、巡礼の殆どが単独行で、例外は、前述満願の日の第28番「成相寺」と晩秋の紅葉見物に来阪した家内と一緒に行った姫路市の第26番「一乗寺」、第27番「圓教寺」、そして京都亀岡市の第21番「穴太寺」の4札所です。家内にとっての関西は常に京都のみでありまして「京都はいいよなー」の意気込みでルンルン気分で乗り込んできます。1998年11月の来阪もターゲットは京都の紅葉に決まっていました。さりながら、小生と
しても折角の休日に巡礼の一つもいけないのは勿体ないとの魂胆から、「紅葉は京都のみに非ず。姫路あたりは関西の通が行くところ」と半ば強引に巡礼に誘導、1日目
は上記第26番、第27番へ行きました。ただ2日目は無条件で京都行きとなり、高尾・
槙尾・栂尾の紅葉三尾を散策、更に北へ足を伸ばして北嵯峨の「直指庵」へ。初めてでしたが輝くような赤と黄の紅葉が目に焼き付いています。京都の紅葉の違いを一言
でいえば、私見ですが赤の色合いに違い、つまり血の色のような濃い赤なんです。
どの札所も地方、僻地の自然に恵まれた環境にあり、野鳥の囀りを耳にしながら森林浴もできました。自然歩道やハイキングルートに組み込まれている札所も多々あり、人里離れた道を黙々と歩いていると世間を忘れさせてくれました。夏は蝉の声に汗を流し、晩秋は関西各地の紅葉に巡り合えたし、お陰様で晴れ男のせいか巡礼途中に雨に見舞われたのはたった一度だけ(12月、滋賀県第32番「観音正寺」)。また、参詣の途中猛吹雪に遭遇したのが翌1999年2月の兵庫県三田市の番外「花山院」でした。
札所の開門は常に早く毎朝6時、閉門は夕方5時のため日の短い秋から冬よりは、春からスタートして初冬には完了する方が楽だと思います。日が暮れて閉門間際に飛び込んだ寺も2、3ありました。その帰りの道は灯りも少なくトボトボと山を下り、バス停で、いつ来るかもしれない路線バスを待ちわびたりと・・・・・・。田舎のバスは良くて1時間
に1本、下手すると午前2本、午後2本なんていう地域もザラにありました。
巡礼各地で色んな人たちに逢いました。勿論巡礼者の平均年齢は高く、自分は若い部類に属していたと勝手に思っているのですが、中には小中学生の息子や娘さんと一緒の家族連れも散見しました。どうみてもシルバー世代の夫婦連れか女性連が主流です。関西の人の方が信心深いように感じました。ただ巡礼と言っても四国88か所に多い菅笠に白装束の方は滅多に見かけません。参詣する人、夫々に祈願の内容が違うのでしょうが、といって「お宅の願いは何?」と、面と向かって聴けるわけがないし「私の願いは・・・です」と公言する馬鹿もいない。ただお賽銭を放って合掌する時間そのものは僅かなものに過ぎないのです。それよりも、納経所でご朱印をもらうのに並んで待っている時間の方が遥かに長いのです。特に団体さんが到着すると、参拝は後回しにして我先に納経所に殺到するのをよく見かけました。
これぞ正しく『大人のスタンプラリー』也。
更に納経所で驚いたことは、結構待たされるからですが、一人で納経帳や掛軸を何本も差し出す人が案外多いんです。家族や友人から預かってきたものでしょうが、そう
いう人の後ろに並んでしまうとかなりイライラします。ある札所では一人で掛軸20本と
いうのも目にしました。聞いていると自分の会社の社員に代わってとの由。また、関東の人から委託を受けて名代で駆け回っている人も多々いるようです。挙句の果てにはこれを業とする人がいて、納経帳1冊20万円が相場と聞き及ぶと、これは、正しく『スタンプラリー』。
最初の巡礼時に驚いたこともう一つ。それはどこの納経所にも何故かドライヤーが設置されているのです。雨に濡れた髪でもでも乾かすのかと思いきや、そうではなく掛軸のご朱印を乾かすためなんです。納経帳の場合は、古新聞の切れ端を間に挟めば 隣のページにインクが写る心配が無いのですが、掛軸はクルクルと巻き取るため、その前に必ず乾かさざるをえないのです。ご朱印の箇所を開いたまま周りに木片を置いて、皆さん必死でドライヤーをかけるのです。だからドライヤーの数にも限りがあるので、その場所にも列ができるんです。ご朱印を得て嬉々としているそんな風景を眺めていると、これは『たかがスタンプラリー』かと・・・。
晩秋の紅葉で有名な姫路市書写山の第27番「圓教寺」では、時間の関係で姫路駅からタクシーを使ったことがあります。家内と一緒の時です。運転手に行く先を告げると、彼が言うには、「巡礼でっか。お客さん達はそんなに年行ってないようだけど、若いうちに全部回っちゃうとお呼びが早くかかるみたいでっせ。私の知り合いで40歳台の二人が全部回り終って数年後相次いであの世へ逝っちゃったんや。まあ脅かすつもりじ
ゃないけんど、最後の一つは後々に残しておくっていう人も多いみたいだよ」と。これには一瞬絶句、思わず家内と目を合わせましたが、すかさず「私の知人にもう3巡目に入っている人もいるんだけど。こういう人は逆に何回でも生き返るんですかね・・・?」と応酬。運転手は「ごめんごめん。余計な事言うてもうた。気にせんとしっか
りお参りしてや」・・・冗談にしてはひどいこというやっちゃなあと思いつつも、晩秋の低い日差しに映える紅葉の中、ロープウエイを経て無事二人で参拝致しました。命懸けで回るという話になれば、これはもう「たかが」じゃない、「されど、巡礼」という事になりま
すね。
蛇足ながら,,,東京へ戻った際、好奇心から「秩父34札所」へも一度足を伸ばし西武秩父駅から近い3札所を参詣しました。西国の札所に比べると、寺の規模、構えのいずれをとっても貧相というか何かしら侘しさを禁じえませんでした。やはり京都という都があった地域は歴史も風格もこんなに違うものかと。もう一つ感じたのは、西国の人
の方が信心深いように思えた次第です。
(5)1998年8月29日(土)の日記より抄
新大阪駅発9:02の特急「オーシャンアロー号」で一路和歌山県紀伊勝浦へ南下。指定席は全席禁煙につき3時間30分の禁煙苦行を経て同駅着12:30。13:00、駅前から那智山上行きのバスに乗車、敢えてというか予定通り、途中下車して熊野古道に入る。旅行ガイドに出ていない本物の熊野を歩きたかったのである。
真夏の快晴とは一転して鬱蒼とした林の中、苔むした石段はヌルヌルと滑りやすい。道の両側に聳える樹齢800年といわれる巨木が立ち並んでいるため燦々たる夏の陽ざしもここまでは届かない。ふーふーいいながら坂を登っているその割には汗をかかない、ここは自然のクーラーである。ところが、坂を登り終え急に明るくなった道に踏み出した途端、玉のような汗が一気に噴き出した。
14時過ぎ、念願の第1番札所「青岸渡寺」到着。目の前の急な石段を一気に駆け上がったものだから、登りつめるや否や膝が笑い出し、思わずよろけてしまう、その瞬間売店のおばさんと目が合ってしまい、これも思わず苦笑い。線香の煙の中、息を弾ませながら参拝。何であれ物の始まり一番てのはいいもの。ここから遠望する那智の滝は壮大、幽玄の世界である。こんな景色ははじめてだ。左手前に見える神社の朱色が一層引き立つ。隣り合う熊野那智大社では折角だからお御籤を引く。両手で抱え上げるほどの大きさの収納箱を振って出てきたのは「第1番」とある。これを社務所に伝えると1番のお御籤を授かる。西国1番、お御籤1番で縁起よさそうと徐に紙を開くと出た!「大吉」。
実は当日の1週間程前の長銀部店長会議では、住友信託銀行との合併を前提に、現経営陣の総退陣と公的資金の申請について報告、議論されていたのである。当時の揺れ動く心境では、占いの中身いかんでは・・・と言えるくらいの精神的重圧がありました。お御籤を恐る恐る開けてみると・・・・・・
<願望> 『思うままなり。安心、油断大敵。』
<事業> 『今の仕事吉。』
<方向> 『東方全て良し。』
<交際> 『今通り続けよ』
<雇用> 『十分ならねど吉。』
<金運> 『しばらく思うようにならぬ。末吉。』
大吉のお御籤を握りしめて那智の滝方面へ下る。高さ133m、ほぼ垂直な滝を今度は真下から仰ぎ見る。この水流は永久に涸れることがないんだよなあと逆らえない大自然の力に只管感服。夕刻、紀伊勝浦駅を出発、途中の南紀白浜駅で下車。その夜は当行の保養所「白浜ブイラ」に一泊。10人は泊まれる部屋にたった一人というのも寂しい限りだが、内湯の温泉に浸かり、浴衣を着てテレビもつけず波の音をバックに蚊取り線香の煙と煙草の煙にまぎれて当地の地酒を友にチビチビ・・・。何とかなるさと自分に言い聞かせつつ、いつ
しか寝入っていた。今思うとこの保養所はその日から約1か月後に閉鎖となったわけだから、小生が最後の利用客だったのかもしれません。
(6)1998年8月30日(日)の日記抄
午前3時一度目の目覚め、午前5時の目覚めで起床。冷えた缶コーヒーで煙草を一服。天気晴朗、一点の雲無し。朝風呂を済ませ直ぐ崖下の海辺を散策。波の音は変わらず、健在也。潮の香も柔らかい。部屋を掃除、施錠して退出。白浜駅前のがら空きの喫茶店でモーニングサービス朝食。9:30白浜駅発、海南駅乗換え、JR紀三井寺駅着。徒歩10分で第2番「紀三井寺」。この寺は滋賀県大津市の「三井寺」との混同を避けるため冠に紀州の「紀」がつくとの由。本堂正面を見上げると「救世殿」と掲げてある。思わず合掌。名前の通り境内から湧き出る三つの井戸の清らかな水は絶え間なく、日本名水100選の一つ。更に近畿地方では早咲桜の名所。
更に紀勢線を電車で北上、和歌山駅着。12:14発和歌山線奈良行に乗換え、紀ノ川沿いに一路東進。車内にはリュックサックから掛軸入れの先が見える乗客が数名、この旅姿で巡礼か観光かが識別できる。納経帳だけで回る巡礼は一般の観光客にしか見えないものの、こういうローカル線に乗り合わせると、地元の住人か巡礼しかいない。車窓からは畑ばかりが続く。生涯でこの路線にもう一度乗ることはないだろう。目的地、粉川駅(コカワ)着12:45。昭和初期のレトロ映画に出てきそうな、はたまたフーテンの寅さんが立ち寄りそうな年季の入った駅舎なり。
炎天下のせいか人通りのない、駅前商店街を15分も歩くと第3番「粉河寺」(コカワデラ)山門。その両脇に立つ大王像と目が合うと「どうや、しっかりやってるか?」と問われたような、はたまた叱られているような気になる。それほどに気弱になっているのかもしれない。本堂の前庭にある枯山水はなかなかのもの。田舎だけど立派な風格の寺。汗だくの顔で「宜しくお願いします」と納経帳を差し出すと、「この暑いのにようお参りなさった」と労われ、来てよかったと素直に思う。参詣を終え駅への帰途、参道には茶店が並びみんな旨そうにビール片手に昼飯時なのだが、一人では今一つ暖簾を潜る気にならず、食より渇きが勝り参道を出て路上で缶ビール1本、これが至上の旨さ。これが本日の昼食なり。
粉河駅ホームのベンチで待つこと15分。汗だくでベンチに腰掛けた途端、隣のベンチから70台婆さんが話しかけてきた。時折の風が涼を運んでくれる。
(先)いい風ですねえ。
(当)本当にいい風ですね。
(先)私は脳梗塞を患ってから33か所巡礼を始めたんですよハイ。命だけは残ったことでこれは御礼に行かなけりゃと。ハイ。
(当)そうでしたか。でもお参りに歩けるようだし、何よりですね。私の父も同じ病気ですが未だに寝たきりなんですよ。
(先)わたしゃあ軽かったんでしょうかね。でもね右側に麻痺があるんですよ。だから京都の上醍醐寺へ行ったときは大変でした、ハイ。
普通の人なら1時間で登ると ころをわたしゃあ2時間以上かかりましたです、ハイ。
御礼に来たのに坂の途中 で息が止まったら申し訳ないと念じていたらたどり着いたんですよ、ハイ。
(当)まだ始めたばかりでそこへはまだでして・・・。ハイ。
・・・・・・・・・・・・・ 電車到着。再び和歌山駅へ。
・・・・・・・・・・・・・ 実はこの婆さんとは約1か月後の10月4日、琵琶湖竹生島の第30番「宝厳寺」の船着き場でバッタリ再会したんです。下船の私と乗船の向こうがすれ違っただけですが、
杖を持ちビッコを曳きながら歩いていました。目と目で挨拶はできたように思います。
(7)お御籤
先に第1番「青岸渡寺」でのお御籤を披露したので序に第33番「華厳寺」のそれを記します。1998年11月1日(日)も「大吉」でした。
『谷汲山 華厳寺 第89番 大吉』
『このお御籤に当たる人は、その身発明にして才知をもって世に知られ、大いに立身出世あるべし。さなき人なりとも随分志を磨き励む時はそれ相応に用いられ仕合すべ
し。神仏を祈りて良し。「望み事叶う」、「職は、土・金・紙に縁あること良し」』
因みにこの日は長銀が特別公的管理銀行となって1週間後でした。
(8)街道を行く
司馬遼太郎著『街道を行く』は元々愛読書のひとつでしたが、西国巡礼の際にも、それ以外でも関西紀行のガイドブックとして携帯して動いていました。シリーズの関西版を更に歩いてみようと思っています。
第4巻 『郡上白川街道、堺、紀州街道』
第7巻 『甲賀と伊賀の道』
第8巻 『熊野・古座街道』
第12巻 『十津川街道』
第16巻 『叡山の諸道』
第21巻 『神戸・横浜散歩、芸備の道』
第24巻 『近江散歩、奈良散歩』
第25巻 『嵯峨散歩』
第34巻 『大徳寺散歩』
第6章 写経への道
巡礼を介していつの間にか「般若心経」に触れることができ、更には写経の域まで進むことになりました。札所を訪れると多くの巡礼者が老若男女を問わず経を唱えていたからです。『マカハンニャ ハラミッタ シンギョウ、・・・シャーリーシ、・・・シキソクゼクウ、クウソクゼシキ、・・・ギャーテイギャーテイ・・・』と訳の分からない呪文が聞こえます。梵語?サンスクリット語?でも「色即是空」は日本語だよね、時代劇に出てくるし。彼らは何のためにあれを唱えるのかと知らず知らずのうちに関心が湧き始めました。願い事をむにゃむにゃ言っているだけじゃ効き目が弱いかもしれない、或いはあの呪文は観音さんを呼び出す合言葉なのか?だとしたらあれを唱えないと観音さんに伝わらないのでは?と自問自答しているうちに遂に「般若心経」の解説本に首を突っ込むことになりました。
般若心経について語り始めるとエンドレスになるので、さわりだけ一つ。京都市東山区の第17番「六波羅蜜寺」は空也上人像でも有名な古寺ですが、「波羅蜜」という言葉は「般若波羅蜜多」(ハンニャハラミッタ)の略語で、彼岸に渡る、或いは完成を意味するとともに、「六波羅蜜」とは6つの修行のこと。些か型苦しくなりますが紹介します。
(1)【布施】フセ 『どこにも拘りのない「空」の心から行う他人への施し』
(2)【持戒】ジカイ 『戒を守る。それを自発的に実践すること』
(3)【忍辱】ニンニク 『受け身になって耐え忍ぶことではなく、自分の不完全さを自覚して他人に迷惑をかけないために耐えること』
(4)【精進】ショウジン 『彼岸に渡ることを目指し弛まず努力し続けること』
(5)【禅定】ゼンジョウ 『煩悩を消し去り精神を集中させること』
(6)【智慧】チエ 『仏の智恵=般若波羅蜜多のこと』
なお、「般若波羅蜜多(ハンニャハラミッタ)」には漢字固有の意味はなく、サンスクリット語の
「パンニャパーラミター」の音訳です。古代中国には片仮名が存在しないため、同音の漢字を当てはめて、僧侶が経典を中国に持ち帰ったようです。サンスクリットはインド・アーリア語派に属する言語で「梵語」(ボンゴ)ともいわれています。
そして遂に写経まで発展するのです。写経は「般若心経」の262文字を筆記しますが、墨を摺る手間も含めばざっと3時間を要します。従って結果的に雨天の週末の有力な暇潰しが一つ増えたことになります。また写経の際は室内に香を焚き気持ちを落ち着かせます。香は京都四条河原町の京極で求めました。いろいろ試してみましたが個人的には竹香が気に入っています。
「臨書」でいえば、まだまだ第1段階の「形臨」=「形を写し取る」に過ぎません。因みにその上の第2段階は「意臨」=「手本の心まで写す」、更に第3段階の「背臨」=「手本を見ずに書く」へ届くかどうか。「晴耕雨読」は小生にとっては「晴歩雨経」でもあります。
第7章「大悲閣」・・・京都嵐山・千光寺
「大悲」とは仏語で、「衆生の苦しみを救う菩薩の大きな慈悲」をいいます。「慈悲」とは「仏、菩薩が人々を憐み楽しみを与え苦しみを取り除くこと」です。「大悲閣」とは大辞泉によれば、「観音堂」の意味の他に固有名詞として実在の寺をいいます。それは京都市西京区嵐山山腹にある黄檗宗「千光寺」の山号で、江戸時代京都の豪商角倉了以による建立、源信作と言われる千手観音を本尊としています。
この寺は西国33札所とは全く関係ありませんが、小雪舞う1999年2月28日にひょんなことから訪れ、非常に印象深かったので番外編としてご案内します。往訪の契機は司馬遼太郎著『街道を行く』シリーズNo.26『嵯峨散歩、仙台石巻』(朝日文芸文庫)です。千光寺へのルートは嵐山渡月橋南から山沿いに30分ほど歩く道が一つ、もう一つは橋南から渡し船で保津川を上り嵐山温泉「嵐狭館」で下船して直ぐ側の石段を登るルート。
実は15年ほど前名古屋支店勤務時代同じ真冬に一人旅で偶々投宿したのがこの「嵐狭館」だったのです。その時にはこの温泉宿の直ぐ上に千光寺なるお寺があるということさえ知らなかったか、知ったにしてもただの寺に過ぎないとの認識から殆ど記憶にありません。寺への登り口に松尾芭蕉の句碑『花の山 二町のぼれば 大悲閣』があります。約200メートルの石段だったようですが、道の途中その一部が崩れて簡易舗装のある坂になっています。千光寺そのものは今や荒れ寺の感。観音堂は仮設板張りの上見すぼらしい小屋の如しです。偶々、本堂に丁度住職がいて、挨拶したら「よく来なさった、どうぞ上がってください」といわれ、座敷でお茶を啜りながら見下ろす嵐山の山林と、その間を流れる保津川に小雪が舞う眺望は、正に幽玄そのもので、平安時代も江戸時代も同じ景観だったのだろうなと・・・。角倉了以も松尾芭蕉も・・・。何代目かは知りませんがまだ若い住職と暫く話しているうちに、良かったらどうぞと戴いた住職作の『心』と題する詩を次に披露します。 『 心 (こ こ ろ) 』
心に、物無き時は、心ひろく体安らかなり。
心に、自惚れ無き時は、愛敬失わず。
心に、欲無き時は、義理をおこなう。
心に、私無き時は、疑うことなし。
心に、驕り無き時は、人を敬う。
心に、誤り無き時は、人を畏れず。
心に、邪見無き時は、人を育つる。
心に、貪り無き時は、人にへつらうことなし。
心に、怒り無き時は、言葉やわららかなり。
心に、堪忍ある時は、事を整う。
心に、曇り無き時は、心静かなり。
心に、勇ある時は、悔やむことなし。
心に、孝行ある時は、忠節あつし。
心に、自慢無き時は、人の善を知る。
心に、迷い無き時は、人をとがめず。
京都 嵐山 大悲閣 千光寺
序に、この寺に来た有名人の和歌を一つ。
『大悲閣 うつらうつらに 登りきて
丘の彼方の 都をぞ見る』 会津 八一
最後に「般若心経」についての千光寺住職の自作詩を掲げます。
『形あるものは すべてこわれてゆく
花のように 人のように 楼閣のように
されど 形なきものは 虚空のように 大空のように
いつでも こわれることを知らない
形あるすべてを捨てた心 かわりゆくすべてを離れた心
それが 空(くう)の心である
空の心は限りもなく 崖(はて)もなく
増えることもなく 減ることもない
こわれゆくこの世のすべてを離れるが故に
生きたることにも迷わず 躓(つま)づくことにも惑わず
ただすべての畏れを離れる
若葉にしたたる日の滴(しずく)がすべてを包み
すべてを育むよう
空の心は 何ものをも許し 何ものをも育てゆく
これは限りなき光であり 楽しみであり
無我のさやけさである
ほがらかなる空の心よ
あたたかく滴る空の光よ 』
合 掌
第8章 十界
これは京都市の東寺(教王護国寺)を参詣した際、金堂の掲示板をメモしたものです。東寺は弘法大師の建立で、嘗て平安時代には朱雀通りを挟んで西寺もあったようですが、現在は東寺のみが残っています。新幹線京都駅南口に位置し、観光地としては、さほどではないのですが、いつ行っても閑静な処で気持ちが落ち着くようで、個人的には大好きなお寺です。毎年2〜3回は季節を変えて訪れました。
「十界」は番号の大きい順に上位で、如来が最上位、菩薩がそれに次いで、最下
位が地獄です。人間は中位に位置付けられていました。今までバラバラな単語として意識していたものが番号順に整理されていたのです。正に目から鱗でした。
I |
如 来 |
自らも悟りまた他を悟らせつつあるもの。自他平等の状態 |
H |
菩 薩 |
他と共に悟りを得ようとして願を起こし修行しているもの。初めて自己を超えた状態 |
G |
縁 覚 |
生活の中から独り悟りを見つけた状態 |
F |
声 門 |
教えを聞くことによって真理を学び取ろうとしている状態。 学生 |
E |
天 |
勝れた楽を受けるがなお苦を免れない。求めることは全て満たされ た人間の最高の状態。しかしなお苦がつきまとう |
D |
人 間 |
堕落することもできるし悟ることもできる。そういう間的存在。地獄と仏 の間、人と人の間、生と死の間 |
C |
阿修羅 |
嫉妬心が強く常に不安がつきまとい戦いばかり、やっている状態 |
B |
畜 生 |
互いに他を餌食として生長し自分のことしか見えない状態 |
A |
餓 鬼 |
飲食が得られないために苦の止む時がない。欲求不満の状態 |
@ |
地 獄 |
極苦処(ゴックショ)ともいう。生きていること全てが苦であるという状態 |
終 章
【 西 国 巡 礼 の 軌 跡 】
通番 |
巡 礼 日 |
場 所 |
寺番 |
札 所 名 |
揮 毫 |
1 |
1998年 8月16日 |
京都市東山区 |
15 |
今熊野観音寺 |
大悲閣 |
2 |
同上 |
京都市東山区 |
16 |
清水寺 |
大悲閣 |
3 |
同上 |
京都市東山区 |
17 |
六波羅蜜寺 |
六波羅蜜 |
4 |
同上 |
京都市中京区 |
18 |
六角堂 |
六角堂 |
5 |
同上 |
京都市中京区 |
19 |
革堂 |
革堂 |
6 |
同上 |
京都市西京区 |
20 |
善峯寺 |
大悲殿 |
7 |
1998年 8月29日 |
和歌山県那智勝浦市 |
1 |
青岸渡寺 |
普照殿 |
8 |
1998年 8月30日 |
和歌山県海南市 |
2 |
紀三井寺 |
救世殿 |
9 |
1998年 8月30日 |
和歌山県粉河市 |
3 |
粉河寺 |
大悲殿 |
10 |
1998年 9月12日 |
京都府宇治市 |
10 |
三室戸寺 |
千手大悲殿 |
11 |
同上 |
京都市伏見区 |
11 |
上醍醐寺 |
根本准低尊 |
12 |
同上 |
滋賀県大津市 |
12 |
正法寺 |
大悲殿 |
13 |
同上 |
滋賀県大津市 |
13 |
石山寺 |
大伽藍 |
14 |
同上 |
滋賀県大津市 |
14 |
三井寺 |
大悲殿 |
15 |
1998年 9月26日 |
兵庫県宝塚市 |
24 |
中山寺 |
大悲殿 |
16 |
1998年10月 4日 |
滋賀県琵琶湖 |
30 |
宝厳寺 |
大悲殿 |
17 |
同上 |
滋賀県近江八幡市 |
31 |
長命寺 |
大悲殿 |
18 |
1998年11月 1日 |
岐阜県谷汲村 |
33 |
華厳寺 |
大悲殿、笈摺堂、満願堂 |
19 |
1998年11月 8日 |
京都府舞鶴市 |
29 |
松尾寺 |
馬頭尊 |
20 |
1998年11月22日 |
大阪府和泉市 |
4 |
施福寺 |
大悲殿 |
21 |
同上 |
大阪市藤井寺市 |
5 |
葛井寺 |
大悲殿 |
22 |
1998年11月23日 |
大阪府箕面市 |
23 |
勝尾寺 |
大悲殿 |
23 |
同上 |
兵庫県社市 |
25 |
清水寺 |
大講堂 |
24 |
1998年11月28日 |
兵庫県加西市 |
26 |
一乗寺 |
大悲閣 |
25 |
同上 |
兵庫県姫路市 |
27 |
圓教寺 |
魔尼殿 |
26 |
1998年11月29日 |
京都府亀岡市 |
21 |
穴太寺 |
聖大悲殿 |
27 |
1998年12月 6日 |
奈良県高取市 |
6 |
壷阪寺 |
普照殿 |
28 |
同上 |
奈良県明日香村 |
7 |
岡寺 |
厄除大悲殿 |
29 |
1998年12月20日 |
滋賀県安土町 |
32 |
観音正寺 |
観音殿 |
30 |
1998年12月26日 |
奈良県桜井市 |
8 |
長谷寺 |
大悲閣 |
31 |
同上 |
奈良県桜井市 |
番外 |
法起院 |
大悲閣 |
32 |
同上 |
奈良県奈良市 |
9 |
興福寺南円堂 |
南円堂 |
33 |
1999年 1月31日 |
京都市山科区 |
番外 |
元慶寺 |
花山法皇 |
34 |
1999年 2月14日 |
大阪府茨木市 |
22 |
総持寺 |
大悲殿 |
35 |
1999年 2月20日 |
兵庫県三田市 |
番外 |
花山院 |
花山法皇殿 |
36 |
1999年 4月24日 |
京都府宮津市 |
28 |
成相寺 <満願> |
円通閣 |
< 追 記 >
@ 第33番「華厳寺」のみ形式上最終札所につき納経帳のご朱印が3個になります。従って、揮毫も3種類となります。その一つが「満願堂」です。
A 揮毫については、草書体の達筆につき判読不明のものもあったので、多くの札所に事後電話等で確認したものです。「大悲閣」と「大悲殿」が大半です。
B 西国33札所なるも番外が3つあるため、通算巡礼数は36となります。
C札所と宗派の関係並びに観音像形態については「日本百観音」として取り纏め別の機会にご案内します。
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